求婚
タナッセの求婚を断った後。妊娠がらみの話がチラッとあります。


 報告をする官吏が、心ここにあらずといった風情の王を見つめた。
「どうかなさいましたか、陛下」
「いえ、なんでもありません。続けて」
 新しき国王となったレハト。彼女が女性を選んだ理由は城中の者が知っている。以前はいがみあっていたタナッセとレハトであるが、ある事件を境に急激に接近し結婚の噂さえささやかれたものだった。けれどいつまでたっても婚約の発表すらされない。結局のところ、王配狙いで求婚したタナッセが捨てられたという憶測が大勢を占めていた。しかしレハトが未練を残しているとの噂も絶えなかった。リリアノが退位した後もなお王城に残るタナッセの姿を目で追う新国王の姿がたびたび目撃されるというのがその大きな要因だった。
 小さな村の出とはいえ、次期国王とみなされていたヴァイルを退けて玉座についたことで、鄙びた庶民と見下していた貴族たちも、いざ国王として戴くことになれば話は別だ。今まで嘲笑していた舌をひっこめて、賞賛の言葉を乗せる舌を新調し、遅れをとってはなるまいと慌てる者たちも多かった。そんな彼らからすればタナッセは目障りだ。新国王がきまぐれに一時とはいえ心を寄せた人物。まだ関係が完全に切れていない様子。王子という地位を失ったタナッセを城から追い出すことに彼らの意見は一致していた。あてこすり、厭味、嘲弄、あらゆる負の感情がタナッセを取り巻いたが、城から出ていく気配は一向になかった。無謀にも力ずくで追い出しにかかる輩もいたが、彼の側に常について離れない大柄の衛士にことごとくはね返されてしまった。さて次の一手は何になるのかと、広間で繰り広げられる無礼会では昔と変わらず話題を提供してくれる彼を肴に、おおいに盛り上がるのだった。

***

 タナッセは、自分に向けられる視線に困惑していた。といっても下世話な好奇心や侮蔑の眼差しではない。思わせ振りに見つめてくるレハト張本人が向ける視線のことだ。隠しきれない想いを秘めたような熱の篭った瞳に、逆に吸い寄せられてつい合わせてしまい、結果タナッセが慌ててその場を離れることになる。求婚への拒絶が偽りであったと信じてしまわないようにと。
 最初は単なる思い過ごし、レハトを意識しているだけだと自嘲していた。しかし、周囲のざわめきに耳をすませるとあながち勘違いとも言い切れない噂が立っているようだ。噂は噂でしかないとわかっていても心が波立ってしまう。だが婚約を断った手前レハトから話しかけてくるようなことはないし、もちろんタナッセからレハトに近寄ることもなく、直接話す機会は篭り明けからまだ一度もない。つまり、噂されるような関係といえるほどの繋がりさえなかった。
 レハトがいずれしかるべき相手を見つけて、幸せに暮らすことをタナッセは望んでいる。その日を想像すると懐に重しを入れられたような気分になる。いずれ心の底から祝福できるようになるだろうが、今はまだその境地に至れないでいた。
 これを未練、というのだろう。元から手に入れられるとは思っていない。レハトの告白は、魔術の影響で衰弱し気が動転していただけなのだ。たとえあのとき彼女が告げたことが本気だったとしても、正気に戻ってしまえばなんのことはない、己の命を奪いかけた人間が共に歩む相手ではないとわかったに違いない。

***

 レハトは執務に熱心で先王の指導を仰ぎ王として身につけるべきことを積極的に学んでいる。即位して半年あまり、周囲からはまずまずの評価を得ていた。壁際の田舎育ちとは誰も信じられない成長ぶりだと囁かれている。貴族の動きはすばやく、レハトの元へは手紙や贈り物が殺到し、置き場所に侍従が頭を悩ませる日々が続いている。
 リリアノが城を去ってからは、さらに結婚話がいくつも持ち上がった。そのたびにうまくすり抜けて独身を通してきたのだが、月日が経るにつれ貴族からの求婚が執拗になっていった。正面から申し込んでも断られるからと、搦め手であれこれと策を弄するようになる。貴族をあしらう訓練はしていたものの、長期間耐えられるほど城暮らしに慣れていたわけでもない。もっと力をつければ、余人に口を挟ませぬほどになれば、と辛抱の日々が少しずつ精神力を疲弊させていった。なかでもランテに次ぐ大貴族の長子が求婚者の筆頭に名乗りでてからはさらにレハトを憂鬱にさせた。格の高い貴族を下手に敵に回すわけにもいかず、丁重に相手をするのも骨が折れる。
 政務の一環としての夕食の場で王配話が持ち上がり散々ねちねちとやられたある夜などは、苛立ちがたまり自室に戻るなり侍従に八つ当たりをする始末だ。事情をよく知る侍従は、我に返り反射的に謝ろうとしたレハトにその隙もあたえず、速やかに退出した。疲れた身体を長椅子に預け目を閉じる。
 良い王になりたい。それなのに結婚という余計な問題が立ちふさがって邪魔をする。押し寄せる王配志願者たちを退けるために王としての地位を確固たるものにしたい。レハトにとって結婚はすでに優先順位の低いものとなっていた。やりたいことも、やるべきことも山積みだ。時間だけでなく、圧倒的に経験が足りない。思うように進めず、所々で躓いてしまう。
 すべてが最初から思い通り上手くいくわけもないことはわかっていた。だが王は失敗してはならない、弱味を作ってはならない、付け入る隙を与えてはならないと、周囲からの期待や重圧、王としての責任感が肩にのしかかり、身動きをとれなくしていた。

***

 ヴァイルが登城する日、人々は皆浮き足立っていた。子ども時代とは別人のように落ち着きをみせ、立派に成人した青年に惹きつけられる女性たちだけではなく、ランテ家当主であり現国王と親しい人間として王配の座を狙う貴族たち。彼らの思惑などどこ吹く風で、ヴァイルは大領主として王と昼食を共にするため昔伯母と従兄と食卓を共にした懐かしい部屋へと足取りも軽やかに向かったのだった。
 ざわめきにヴァイルが立ち止まると、中庭を挟んだ廊下にレハトと彼女に付き従う者たちがいた。レハトは何かに気を取られているようだ。視線を追って、思わず吹き出しそうになり口元を押さえた。居心地の悪いであろう城に今でも残る従兄が気まずい表情でそこに立っていたからだ。本来ならば伯母が退位した今、城から自由になれたはずなのだが、不思議なことにタナッセは自らの意思で城暮らしを選んだ。一時はヴァイルも二人が結婚するものかと思っていたのだが、そううまくはいかなかったらしい。だが、二人の様子はすべて断ち切れたわけでもなさそうだった。険悪な雰囲気の中罵り合っていた昔を思えば現状さえ奇跡のようだ。
「あ、逃げた」
 ヴァイルがもらした小さな呟きが消えると同時にタナッセの姿も消え去った。レハトはといえば、何事もなかったようにしずしずと歩みを進めた。
「……あの二人、何やってるんだか」
 
 昼食の場に現れたレハトは疲れた様子がにじみ出ていた。
 気心が知れた相手とあって、くつろいだ雰囲気の中食事が始まった。体調を気遣い近況を尋ねると、青白い顔でレハトは大丈夫だとの一点張りだ。そこで本来の登城した目的でもある政治の話を向けてみると、ほっとした顔で応じてきた。口が滑らかになった頃を見計らい、再度水を向けてみると、レハトが重い口を開いた。
 王配の座に群がる貴族、視界に入るタナッセ、庶民出身の王への侮りを隠さない貴族、目が合っただけで逃げてしまうタナッセ、やりたいことが思うように進められない政治、手紙もよこさず話もできないのに目の前でうろうろされると未練が増すばかりで諦めきれない、近頃大貴族の求婚者がしつこくて困っている、癖毛の男は好きじゃない、ねちっこくて強引な男は始末におえない、結婚前から逃げると予告するとはいったいどういう了見か、それほど自分には魅力がないのか、王配は重荷なのか、求婚を断って毎日後悔している、かといって前言撤回するわけにもいかない、気分転換に兎鹿にブラシをかけたら思いの外楽しかったが隙を狙って噛まれかけた、など話は尽きない。
 ほとんどレハトがしゃべって昼食会は終了した。だいぶすっきりした顔をしている。
「ありがとうヴァイル。こんなこと誰にも話せなくて」
 
 中庭の石の椅子に腰掛け物憂げにため息をついているタナッセを見つけた。
「昼に会ったけど、レハト元気なかったよ」
 再会した時点ではかなり疲れていたことは確かだ。
「そうか……」
「喧嘩したの?」
「いや、そんなことはない」
「最近話してないんじゃないの」
「……成人前に会ったきりだ」
「一年以上も? 嘘でしょ。じゃあなんで」
「城に残ったことと、あれのことは関係ない」
 口をつぐんでそれ以上タナッセは何も言おうとしなかった。頑固なのはランテの血か。誰がどう見てもタナッセが城に残った理由はレハトだ。おまけに遠くから視線を合わせる二人を見ては、噂もますます真実味を帯びてくる。ヴァイルから見ても二人の縁が切れたようには見なかった。
 ヴァイルは後ろに手をついて、空を仰ぎ見る。大きくため息をついた。
「今さあ、レハトかなり困ってるみたいだよ。ほら、赤い髪で、ふわふわーっとした髪の長い奴いたじゃん、タナッセが成人する前も舞踏会で会ったでしょ。ランテ目の敵にしてる奴。そいつがレハトにごり押しで求婚しててさあ、相当しつこいらしくって、もうかわすのも限界っぽい」
 タナッセがぴくりと反応する。
「かわいそうに、だいぶやつれてたよ。あーあ、誰かさんがすぐ近くにいるくせに見てるだけで何にもしないから。何のためにここにいるんだか」
 タナッセは、唇をきつく結んで思いつめた表情になったが何も言おうとしなかった。

***

 久々にヴァイルが舞踏会に参加するとあって、開始直後は彼を取り囲むように貴人らが集まり、とくに若い女性たちが多く集った。適当に相手をしているうち中盤になって場が落ち着くと、人の波から脱け出して一息つく。
 ふと見ると露台へ向かうタナッセの後ろ姿があった。とくに誰も伴わず、何かを追うように足早の様子にヴァイルはぴんときた。後をつけてみれば、すぐ隣の露台から声が聞こえた。
 はっきりと会話が聞こえるわけではないが、レハトと彼女に迫る男の声であることは確かだった。答えあぐねるような答えに、有無を言わさぬ余裕を持った低い声が絡む。
 舞踏会ではすでに姿を消したレハトとその相手が噂の的になっていることだろう。
 物陰で息をひそめてレハトを見つめるタナッセに小声で呼びかけた。
「なっ、何故お前がこのようなところに?」
「こそこそ出てくのってかえって目立つよなー。タナッセこそなんでいるのさ」
「……少し外の空気を吸いたくなっただけだ」
 ヴァイルを一瞥すると、広間へ足を向けた。後ろ髪を引かれるのか、ゆっくりと小さな足幅で進む。
「あいつ、外堀埋めだしてレハトが逃げられないようにするだろうね。求婚者の筆頭だって王配気取りしているようだし、レハトが結婚するのも時間の問題かも」
「何が言いたい」
「知らない」
「……私には関わりのないことだ」
「へー、そう。……あっ、レハトが」
「何?」
 タナッセが慌てて振り返る。そのとき隣の露台には、レハトと衛士たちしか残っていなかった。
 ヴァイルがいる位置からうつむいている様子をうかがえる一方で、窓際のタナッセからは人影がかろうじて見えるだけだった。
「どうした」
「関係ないんでしょ」
「言いかけて口をつぐむな」
「別に知らなくていいんだよね? レハトが誰と結婚しようが、誰に傷つけられようが、誰に泣かされようが」
「……っ!」
 足早に走り去る靴音が露台に響いた。

***

 タナッセが図書室へ行く途中のことだった。外出していた王の一行がもうすぐ到着するとの知らせに足は鹿車駐留所へと向かっていた。迎えに侍従や衛士らが待ちかまえているところへ、すべりこむように鹿車が入って来た。扉が開き、レハトが降りる。侍従と何かを話し、迎えた者たちへ言葉をかける。笑みを浮かべているものの、張り詰めたような表情に胸が痛んだ。
 光沢のある黄金色のマントをさばき、建物へ入るレハトが突如傾いで倒れた。側付きの衛士の腕にだらりと弛緩した身体を預け、まるで抜け殻のようにぴくりとも動かなかった。
 人々の肩越しに見えた彼女が倒れる瞬間、こちらへ伸ばすように右手が上がった。その手を掴み、抱きとめる位置にいなかった自分に無性に腹が立った。
 
 レハトは過労ということだった。
 顔色が良くなかったというのになぜ誰も気づかなかったのか、なぜ誰も休ませようとしなかったのか。侍従たちは、医士たちは何をしていたのだ。そして自分は何をしていたのか――ただ見ているだけで。
 タナッセは自分の足元が消えていくような感覚に陥った。

***

 大人しく医士の診察に従い体調を整え、休んでいた間滞っていた書類をさばくレハトの元へ、タナッセから面会の申し込みがあった。見舞いというには日にちが経っていた。翌日の夕刻、小部屋へ招いた。
 勧められた椅子へ座る彼をいつになく間近に感じた。お茶を入れた侍従が下がってしばらくした後タナッセが口を開いた。
「……身体の調子はどうだろうか」
 タナッセの声は優しい響きをかすかに帯びていた。久々に聞いた声に胸が弾む。自然と笑みがこぼれた。
「元通り、元気だよ。丈夫なたちだしね。……それで、今日は何の用?」
「近頃厄介な人間がお前の周囲にいると耳にしてな……。いや、人のことを言えた身ではないとわかってはいるが」
 かぶりをふって瞳を伏せ、タナッセから視線を外す。
「私こそ……タナッセに迷惑を」
「何?」
「私が近づくと、周りから余計な詮索をされてしまうから。それなのにタナッセを見かけるとつい……一目でも、と。本当にごめんなさい」
 困惑の色を浮かべるタナッセに頭を下げた。一度心のうちを漏らすと編み物のように次々とほどけていった。押し込めていた感情がざわめき、目の前の彼へ向かって流れ出す。子どもだった最後の日に求婚の言葉をはね除けて後悔した想いと混ざり合う。
「城に縛りつけたくなかった。私と結婚すれば、父親と同じ道をたどらないように意地でも城を出ないつもりでしょう。そんなの嫌だった。これまでずっとリリアノのために頑張ってきたのに、今度は私のために城にいてなんて我儘言えない」
「……そ、うか。そうだったのか、なんだ、そんなことで、お前は」
 タナッセの肩が小刻みに震える。怒らせてしまったのかと身構える肩をタナッセがしっかと掴んだ。
「タナッセ?」
「そうだ、お前の言う通りだ。だが、いいかよく聞いてくれ。前にも言ったが、私はお前と結婚しようとしまいと、ここに居残ることを選んだのだ。そして……できることならお前の幸せを見届けたいと思っている。しかしそれが私に繋がるというのならもう一度言わせてくれ」
「だめ、タナッセ」
 レハトの足下に跪き、手を取って押しいただくように自らの額に当てた。
「アネキウスも御照覧あれ。タナッセ・ランテ=ヨアマキス、この命続く限りお前と共にあると誓う」
 祈るようなタナッセの声に彼女は固く目を閉じた。
「……レハト、私と結婚してほしい」
「タナッセ……」
「自惚れと笑ってくれてかまわない」
 タナッセがついと顎をあげた。
「どうか躊躇わないでくれ」
 ひたむきな眼差しをぴたりとレハトに据え、答えを待つように口を閉ざした。
 レハトは眉を切なくひそめて、手をとられたままそっと顔をそらした。小窓から投げ落とされた日差しに目を向ける。
 光は希望に満ちていて温かだ。数歩近寄れば全身にその光を浴びることができる。けれど踏み出せば、どうしても彼まで道連れにしてしまう。共に光を浴び幸福を享受すると同時に、こうして窓から差してくる光の周囲にくっきりとした影が形作るように、二人を様々なものが縛りつけてくる。城は彼にとって決して居心地のいい場所ではなかっただろう。そしてこれからも。彼を思うとどうしてもタナッセに応えることはできなかった。
 タナッセの求婚を断り、王になることを選んだ時点で私心を捨てたつもりだった。けれど、徹しきれなかった。どんなに抑えようとしても心は彼を求めてしまう。リリアノのようにはできない。混濁した思考の波に漂った末、ぽつりと言葉が出てきた。
「一つ、お願いがあるの」
「……出来る限り応えよう」
 中途半端に求めるくらいなら、いっそ全てを縛ってしまえばいい。
 レハトが望めば、タナッセはどんな願いでも聞き入れようとするだろう。なにしろ命を奪いかけたという負い目があるのだから。そのためにはっきり言葉にする。
「私が退位するまで側に、城にいて欲しい。どこにも行かないで」
「わかった」
「無茶を言ってるのに、どうして」
「お前の在位中、城を出るつもりなどなかった」
 予想通りの返答に胸が痛んだ。彼は償いのためにレハトの側にいるのだ。
「……あんなこともう忘れてほしい」
「忘れてなるものか。腕の中で冷たくなっていくお前を見て初めて己の罪の深さを自覚した。子どもじみた望みを追い求めた結果が、あの有り様だ。もう二度とあんなお前を見たくはない」
 苦しそうに表情をゆがめるタナッセが顔をそむける。ゆっくりと近づいて彼に抱きついた。
 動揺する気配と秘やかにつくため息が伝わる。少しの間があった後にぎこちなく手が彼女の背中へ回った。その瞬間、レハトは最後まで抱えていた迷いを捨てた。もう彼を諦めないでいいのだと。
 唇に伝わる温もりから彼という唯一の存在を感じていたくて、いつまでも目を閉じて身を離さないでいた。

***

 王の婚姻の儀が盛大に開かれた。
 やがて次期継承者が見出され、時は過ぎる。  レハトから、成人した新たなる王への引き継がれ次代へっ移ってゆく。
 慌ただしい日々の末にようやく二人で落ち着いて話せる時間をもうけることができた。タナッセが座ると、レハトが口を開いた。
「そろそろ城を出ようと思う」
「ああ」
 レハトは胸に手を当て、息を深く吸い微笑んだ。
「今までありがとう、タナッセ」
「何を、言っている?」
「あのときの約束を守ってくれてありがとう。長い間お疲れさま。もういいから。タナッセはどこへでも、好きなところへ自由に行っていいよ。ディットンに行きたいなら屋敷を用意するし、ランテの方に戻りたいならヴァイルに話をつけるから何でも言って」
「……そうか、夜に必ずあの香を焚いていたのは、別れることを前提にしていたからか」
「子どもがいたらタナッセは無理をしてでも離れないでしょう」
「私が城で何と呼ばれていたか知っていたか? いや、いい答えずとも」
 レハトが小さく謝った。
「他に必要な手続きは済ませてあるから、あとはタナッセが署名してくれるだけ」
「……わかっていた。お前が私にしてやれることはそう多くないと」
 渡された書類を読み、用意されていた羽筆を手に取る。微風がタナッセの唇からやるせなく漏れた。窓辺へ向かったレハトの背中に、言うでもなく呟いた。
「二度目に求婚した時、確かにお前の心に触れたようなつもりでいたが……結局お前というものがわかっていなかったということか」
「わからなくても、受け入れなくても、何もする必要はなかったよ。私は充分満足していたもの」
 ほんのわずかに震えの混じった声にタナッセが顔を上げる。
「……ならば、何故泣いているのだ」
 うつむいたレハトの髪が揺れて肩を流れ落ちる。
「どうしてリリアノみたいに出来ないんだろう。私にも子どもがいれば違ったのかな。もっとも、そんな前提さえありえないけど」
 悔恨の響きを帯びた呟きに、いぶかしむタナッセが羽筆を置いて立ち上がる。心細げに肩を振るわせるレハトに手をかけようとして、触れる間際で手を止めた。
「タナッセと結婚して城にいる間、一生分の思い出を手に入れさえすれば、退位後もそれなりに幸せに過ごせるって思ってた。タナッセの罪悪感につけ込んで得たひとりよがりの幸福なんて……まがい物でしかないのに。私は本当に愚かだったよ。今頃気付いたのだから。ごめんなさい、タナッセ」
「ランテの人間ではあるまいに、頑固が過ぎる……お前という奴は、いや、私も人の事は言えぬか」
 レハトを抱きしめ、背中に流れる髪をそっと撫でた。幼子をあやすように、優しく、何度も。時折髪をすくようにして。
「やめて」
 レハトの拒絶に一瞬手は止まるが、頬を伝い落ちる涙を拭い、両手で頬を包み込み唇を重ねた。
「タナッセ」
 制止する声を聞いても、こぼれ落ちる涙を拭うように、顔のあちらこちらへ口付ける。
「決意の足りない私がお前を追い詰めたのだな。……確かに、己の犯した罪を償いたい気持ちはあった。だが、それだけではない。レハト。周囲からの重圧と王としての責務に一人で耐えるお前を、支えたいと思ったからだ」
 レハトは深く息を吸って、溜めこんでいたものを吐き出すようにまくし立てる。
「だめ、だめなのに諦められない。タナッセと別れたくない。離れたくない。別れたタナッセが他の誰かの手を取ることを考えただけで嫉妬で狂いそうになる。自分の幸せを優先し続ける自分が嫌になる。……でも好きなの。愛してる。愛してるの。……ずっとタナッセの子、欲しかった。ああ、全部無駄になった。余計なことは黙って見送りたかったのに」
 顔を覆って背を向けてタナッセから離れようとしたものの、腰に回った彼の腕がそうはさせなかった。
「間に合ってよかった……。私はまた過ちを犯すところだった。レハト、愛している。これからも、お前の夫でありたい」
「……タナッセ。今、何て言ったの?」
「お前の夫でありたい、と」
「その前」
「…………レハト、愛している」
「あ……ああ……っ!」
 大声で泣き崩れるレハトをうろたえながら受け止めた。全身でぶつかってくる彼女の温かい身体を包み込み、内心なぜそうなってしまったか会話を反芻したものの、疑問は解消されなかった。
 腕がしびれはじめ支え難くなり、側にあった長椅子へとじりじりと移動し、抱えたレハトごとさりげなく座った。胸の中で泣き濡れるさまを見ると、胸の痛みに襲われ、ひたすら慰めて時を待った。
「初めて……言ってくれた。愛してるって」
「言ったのは初めてではないが?」
「嘘! 今までそんなこと一度たりとも言わなかった。好きとも言わなかったよ。タナッセの言葉を聞き逃すのも、忘れるのも絶対ないから」
 はっきり自信をもって断言されて、改めて記憶を慎重にたぐりよせる。
 夜、安らかに眠るレハトに語った言葉が脳裏によみがえる。あるいは、朝目覚める前に囁いた言葉。人知れず囁いた想い。
「お前が、意識のない時に……その、言ったのだと思う」
 呆けたように口を開けて、レハトがタナッセの顔を見つめた。
「馬鹿馬鹿、もう馬鹿じゃなくて兎鹿だよもう」
「何をわけのわからないことを」
「兎鹿じゃないんだから、言ってよ。飾らなくていいから。ただ、愛してるって言葉だけで充分なの。だからもう一度言って?」
 やや間を置いてタナッセの声がレハトの耳に届いた。
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