本当の名前 |
広間でお菓子をつまんで、その残りを包んでもらって中庭へ向かう。 トッズは表立った護衛ではないし、ただのお抱え商人というわけでもないから、以前のように一緒にお茶をするということができない。人気のないところで座り込み、彼を呼ぶと茂みからにょきっと足が現れた。ついで馴染みの髭のついた顔が登場した。 「おや、いい匂いがするねえ」 包みを広げて差し出すと、トッズは焼き菓子を一枚つまんで口に放り込んだ。 「う〜ん、うまいうまい。さすがお城で出されるお菓子は一味違うわ」 持ってきた菓子に手をつけないで、じっとトッズを見つめる。 「ん? なになに。そんなに熱い眼差しで見られると穴あいちゃうよ」 単刀直入に本題を切り出す。本当の名前を教えて欲しいと頼んだ。 「だからヘイドロパリメンフノヒタスだって言ったでしょ?」 そんなふざけた長い名前が本名だと言われてはいそうですかと騙される人間はいない。 「悲しいなあ、レハトに信じてもらえないなんて」 そう言って彼は、よよよと顔を手で覆って泣く。指の隙間からちらりとレハトを油断なくうかがう目。二人の目と目があってトッズは顔を上げた。 「前に、レハトが本気になってくれたときって言ったでしょ?」 既に本気も本気なのだ。だから教えて欲しいと言いつのる。 二人きりのときしか呼ばないから大丈夫、今だってこうして二人きりで会っているのだ、できないことではない。絶対誰にも言わない、二人だけの秘密にするからと。 「そんな可愛いこと言われちゃったら、こっちもつい本名ばらしたくなっちゃうかも」 期待をおさえきれずに身を乗り出したレハトがトッズの袖を掴む。見上げるとトッズはへらりと笑っていた。 「しょうがないなー、レハトは。じゃあ言うよ?」 トッズは微笑み、たっぷりと間を置いて口にした。 「俺の名前はヘイドロパリメンフノヒタスです」 がっかりして顔を背けた。頼みを受け入れてくれたのだと期待させておきながら、またしても嘘の名前を言い張ろうとするトッズに少し腹が立った。のらりくらりとはぐらかすところのあるトッズだが、とくにそれが嫌いではなかった。ただ今回ばかりは、かわされると悲しかった。自分が子どもだというところをまざまざと見せつけられたようで。大人のトッズにとって他愛ないことなのかもしれないが、自分にとっては違うのだ。ただトッズの本当の名前を呼びたいだけなのに。それがうまくいかない。教えてもらえないということは、まだトッズにとって自分はそれほど大事な存在ではないからだろうか。それとも時機ではないということか。本気にしてもらえないのはまだ性も定まっていない未成年だからか。大人の女性ならいいのだろうか。トッズに似つかわしい、隣に座っていてもいぶかしげな目で人に見られないような。数年待ってもらえればそうなるように努力するけれど、トッズにも時が流れているのだ。それでもいつか彼に追いつくことができるのだろうか。 考え込んで自分の小さな手に目をとめ、ついでトッズのごつごつと骨張った大きな手と見比べた。 「ん?」 トッズの相も変わらぬ飄々とした風情に意地をはりたくなった。こうなったらトッズのほらに乗ってやろう。 今後トッズをヘイドロパリメンフノヒタスと呼ぶと宣言した。さらに、自分をレハトという名ではなくナユルムアッキセという新しい名前で呼ぶように言った。もしレハトと呼んでも返事はしないと念を押したのだった。 *** 市が立つ日。トッズのところへ通っていた習慣が抜けきらず、自然と足を中庭へと向けていた。城は人が多く昼の広間や舞踏会では賑やかだが、喧噪といってもいい市の活気ある賑わいはまた違ったものだ。商人は物珍しい商品を店先に並べ、面白い口上を並べたて客の気をひく。城での生活に慣れた今でも、貴族よりは商人のような人間の方に親しみを感じる。あちこちの店先を覗いて商人の話に耳を傾ければ外の生活に触れた気分になった。 飴細工の尻尾の部分を舐めながら、次はどこの店にしようかときょろきょろと見まわしていると呼び止められた。 「坊ちゃんご贔屓の商人は最近顔を出してないようだよ」 トッズが店を出していた頃毎回のように来ていたものだから、どうやら顔を覚えられていたらしい。そのご贔屓の商人といえば陰から人知れずレハトの護衛をしているのだけれど。 「もしかするとどこかの貴族の御用商人になったのかもしれないね」 相手の話に合わせてそうかもしれないと頷いて店先へ立ち寄る。この商人は耳飾りや髪飾り、指輪など装飾品を扱っていた。安価でシンプルなデザインのものが多く、どれか一つ買ってみようかという気になった。品物を見ていた使用人らしき女性が、あれこれ店主へ尋ねている。 涙型の石がついた耳飾りにふと目を止めた。トッズも似たようなものを身につけていた。それほど意識して見ていたわけではないが、出会った頃からずっと付けていたように思う。自分で買ったものだろうか、それとも誰かからの贈り物だろうか。もしそうだとしたら……そうだとしてもどうだというのだ。トッズの過去。覆い隠すのが上手な人だからきっとそれを知ることは本当の名前を知るのと同じくらいほど難しいことなのだろう。 耳飾りから目をそらし、今度は指輪を物色する。小さな石のついたもの、ねじりが入ったもの、石をつなぎあわせたもの。どれもいまいちピンとこない。 側で話すものだからどうしても隣の女性と店主との会話が耳に入ってしまう。 「贈り物だね、お相手は何歳くらいだい?」 「二十よ。田舎の兄さんにあげようかと思って。彼女の一人くらい作ればいいんだけど、浮いた話はちっとも出ないのよ」 「じゃあここら辺の品だね。……そのお兄さんはいい弟さんを持ったね。王城の市なら各地から商人が集まっているから気の利いたものが多い。必ずお客さんの気に入る商品が見つかるだろうさ。それがうちの店ならなおうれしいね」 「じゃあ選ぶの手伝ってよ。私男物選ぶの初めてだからよくわかんなくて。何かおすすめはないの」 客の女性は二十歳になる兄への贈り物を見繕いに来たらしい。トッズと同じ年の男性と聞いて余計に気になってレハトは耳をそばだてた。 「そうだねえ、人にはよるが……男向けなら繊細な作りよりは男性的ながっしりした物が好まれるね。曲線よりは直線的な角張っている、これとか、お客さんの右手の前にある品なんかそうだね。まあ普段つける分には邪魔にならないこれくらいがいいよ」 女性は差し示された腕輪を見ているが、今レハトが見ている指輪も同じように幅広のものと細い作りのものがある。厳ついものになると小指の先ほどの幅がある。石がはめ込まれた指輪の土台は四角く形作られどっしりとしている。 これならどうか、と目をつけた指輪に手を伸ばしかけてやめた。誰のために手に取ろうとしたのかということに思い至って我にかえる。 宙に浮いた腕がその隣の髪飾りの群れにふらりと着地する。小さな花が二つついた可愛らしい髪飾り。値段はそれほど高くなく受け取ってもらえそうだ。サニャへのお土産にしよう。早速包んでもらい、市を後にした。 部屋に戻るとサニャが背を向けて作業をしていたので、こっそり近づいていく。ローニカには、口に人差し指を立てて黙っているよう頼みそろそろと忍び寄る。うっすら鼻歌を歌っていてご機嫌のようだ。ぱっと抱きつくとサニャが驚いて悲鳴を上げた。 「きゃっ! ……レハト様でしたか。もうびっくりさせないで下さいでございます」 お土産だといって先程の包みを渡す。最初は遠慮していたけれど、似合うと思ったこと心をこめて伝えると、サニャがはにかんでお礼を言って受け取ってくれた。 *** 図書室へ向かう途中、中庭の茂みかからひょっこりトッズが現れた。 「サニャちゃんにお土産なんてあげちゃって、隅に置けないな。ところで俺には何かないの?」 ないと首を振ると、大げさにトッズががっくり肩を落としてみせる。 「最近ナユルムアッキセは冷たいなー。昔はあんなに懐いてくれてたのに」 一方的にした約束だが、あの日からぴたりとレハトと呼ばなくなった。勢いでそう願ってしまったが、いざ呼ばれるたびに胸がぽっかり空いてしまったようなむなしさを感じていた。 「ナユルムアッキセ」 耳元で甘く囁かれる偽りの名前。彼の声音は優しい。それがつらい。自分でない他の人間と彼が仲睦まじくしているのではないかと錯覚を覚える。 彼の目は確かにこちらを捉えているし、彼の手はこの手を掴んでいるというのに。まるで自分が空気か何かになったかのようで、本当の自分はどこにいったのか、ひどくあやふやな存在感に恐怖した。たまらずトッズの手をぎゅっと握りしめる。 「ん? どうしたの」 レハトと呼んで欲しい。本当の名前で呼んで欲しい。いやだ。トッズにはちゃんと自分を見て欲しい。名前を呼んで欲しい。 「レハト。俺はいつだってレハトのこと見てるよ?」 思わずトッズにしがみつく。 どうしてトッズは違う名前で呼ばれても平気な顔をしているんだろう。トッズが平気でも、やはり悲しくなってしまう。 「あー、そんな顔しないの。お前を泣かせたらじじいに殺されちゃう」 冗談めかしてそう言って、あやすように抱きしめたまま、身体を揺らす。まるで昔母さんにされたみたいだと、少し懐かしくなって余計に寂しくなった。 「うん。わかった。レハトにとってすっごく名前が大事ってこと。でもごめんな。俺はそうじゃない。そういう奴なんだ。……で、俺のこと嫌いになった?」 首を振る。ああよかったと、トッズは頬ずりをしてきた。 「俺もレハトが大好きだよ」 いつになったら、トッズの全てを知ることができるのだろう。トッズの本当の名前も、彼の過去も何もかも。 過去はいつもごまかして口にしたがらないので無理に聞き出すつもりはないが、名前だけは別だ。 トッズの本当の名前をどんな手を使っても聞き出してみせる。いつか絶対呼ぶのだ。そう空高く輝くアネキウスに誓ったのだった。 |
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