いとしい人
ヴァイルと初対面のとき印愛15のレハト。視点がコロコロ変化。



 石造りの城の偉容に圧倒され、タナッセを筆頭に城の人間の好奇の目にさらされながら辿り着いた先で待っていたのは現在の王リリアノだった。王様という存在自体夢のようで実感がなく、ただただ圧倒されるばかりだ。彼女に王を望むかと尋ねられたが、固まる口を開いてわからないと答えるので精一杯だった。何もかもわからないことだらけで、今来たばかりの城で、この目の前の威厳をたたえる王と同じ位置に立てるかと問われれば、本能的に無理だと思った。
 ローニカに、これから私が暮らす部屋へ案内された。ようやくほっと一息つける。くたびれた心と足を休めたかった。
 部屋にはすでに先客がいた。青い服に、短い緑の髪の少年。ちょうど私と同じくらいの背丈だ。窓際に置かれた椅子から立ち上がり、振り返ったところで時の流れが恐ろしいほど遅く感じた。
 胸が、頭が、身体が弾けたように熱く、しびれて指先ひとつ動かせない。
 少年は人なつこい笑顔を浮かべてこちらへ近寄ってくる。私の目は彼から一瞬たりとも離すことができなかった。彼の声が耳に心地よかった。快活そうで、初めて会ったというのに慕わしい気持ちにさせられる。リリアノと面会してこちこちに凝り固まっていた心を溶かされる気がした。
 何か尋ねられたけれど、声に気を取られていた私は質問の意味もわからず頷くばかりだった。このとき初めて彼の表情が一変してしまった。何と答えればよかったのか。思い出そうにも部屋に入ってからの記憶があいまいだ。幸い彼は気を取り直したらしく、笑顔を見せてくれてほっとした。
 別れ際の「またな」という言葉からすると、また会えるらしい。唐突な出会いと動揺に、別れも突然だった。
 彼が去った後も、私は彼の姿、彼の声を反芻させては、胸に湧き上がってくる浮き立つ気持ちに戸惑いつつも身を委ねていた。石造りのしっかりと足の裏に感じられた固い床が、城へ来る途中の宿屋で食べたパンのように柔らかかった。そうしていつの間にか私は、先程彼が座っていた椅子へと移動させられていた。彼の名前を尋ねると、目を見張ったローニカが短く答えた。
「ヴァイル様とおっしゃいます」
 なんといい名前だろう。彼にこれほど相応しい名前はない響きを持っている。ヴァイル。ヴァイル。ヴァイル。
 今度会ったとき、名前を呼ぼう。早く呼びたい。心の中でヴァイルの名を大切に繰り返す。ふと、私も様をつけたほうがいいのではと疑問に思ってローニカに確認する。
「いいえ、その必要はございません。ヴァイル様もレハト様も、等しくアネキウスの選定印を授かった寵愛者でいらっしゃいます。あの通り大らかな性格の方ですから、そのままお呼びするほうがよろしいかと」
 この返答でローニカが頼りになると気づき、これからの生活や印や城のことはさておきヴァイルについて根掘り葉掘り聞いたのだった。

***

 二人目の寵愛者がいたと知ってヴァイル様は、レハト様の来訪を楽しみにしていた。部屋で待っていたのも、いち早く会いたかったのだろう。
 レハト様は驚いた様子で、ヴァイル様の質問に上の空で頷いていた。
 五代目から受け継ぐ治世を、なにも継承者が二人いるからといって六代目で乱世の幕を開くことはない。早く城になじめば、年明けまで城に留まることになる彼にとって暮らしやすくなる。気さくな人柄で年齢も同じヴァイル様であればいい関係を築けるのではないか。それはお互いにとって悪いことではない。
 それに平民として暮らしてきたレハト様は、城での立ち居振る舞いや、貴族であれば当然習得しているはずの知識を身につけていない。最初は貴族や使用人たちから軽んじられるだろう。その後は本人の努力次第だ。表向きにライバル関係にあるとはいえ次期国王のヴァイル様と親しくあれば、権力におもねる貴族の一部は大人しくなるだろう。一方で、あまりに親しくなりすぎると別の意味で不興を買うに違いないが。
 彼はヴァイル様に一目で魅了されたらしい。選定印や王城について説明する予定だったのだが、ヴァイル様のことばかり熱心に尋ねる。出自や性格、親しい人間、幼い頃のヴァイル様について、好きな色や、食べ物の好みまで事細かに知りたがった。やがてまぶたをこすり、あくびする時間になってもまだと催促された。続きは明日にと言って寝台に案内すると、灯りを消してしまう前に安らかな寝息が聞こえてきたのだった。

***

 翌朝、私は寝台から飛び起きた。約束通りローニカに城を案内しながらヴァイルについて教えてもらうのだ。
 ローニカに侍従のサニャを紹介され、着替えや身だしなみをすばやく整えた。はりきりすぎて水をこぼしたり、ズボンと思って思い切り足を入れたら袖で膝につっかかって転んだりと、頭の中で描くほどすばやくはできなかったが、とにかくすばやくだ。
 もしかしたら今日偶然ヴァイルに会えるかもしれない。そうしたらなんといって声をかけよう。まずはやはり最初にこちらから名前を呼びたい。ヴァイルと大声で。振り返った彼は何と答えてくれるだろう。
「レハト様」
 困ったサニャの声にはっとする。まだ着替えの途中だった。力強く曲げていた腕を伸ばすと、服に通される。
 支度が整い、サニャに見送られローニカと部屋を出る。私の部屋があるこの王族の塔には、ヴァイルと彼の従兄弟のタナッセ、彼の叔母のリリアノの部屋があるらしい。塔の中で会うのではと少なからず期待していたけれど、あのそよそよと風になびく草原を思わせる緑の髪をしたヴァイルは見あたらなかった。
 広間にはヴァイルも食べに来るらしい。これから広間で食べよう。毎日来ていれば、いつか必ずヴァイルと会える。
 不思議な味と食感のする魚というものを食べ、朝食が済むと、今度は神殿に向かった。城の神殿は、村のこじんまりとした木造の神殿とは違い立派な石造りの建物だった。礼拝に参列する人の数も多い。ふと見上げた天井に開いた穴から、どこで見ても変わらない太陽がのぞいていた。
 ずらりと並んだ席の一番前の列に座っていた一人がぴょこんと頭を跳ね上げて振り返った。ヴァイルだった。彼に呼ばれて、隣の席につく。なんて話そうと迷っている間にヴァイルは寝てしまった。礼拝の最中にもかかわらず起きる気配はなく、起こそうとする人間もいない。
 礼拝の後に感想をローニカに聞かれたけれど、内容はまるで覚えてなかった。耳に残るのはヴァイルの安らかな寝息だけだ。
 どこでも城を案内してくれるというので、全部回ってみることにした。
 訓練場でヴァイルとまた出会った。せっかく誘われたのだけれど、剣を持ったこともない私には訓練の相手をすることができない。それにしてもヴァイルは動きが早い。いたかと思ったらすぐに行ってしまう。
 衣裳部屋へ案内されると、きらびやかな衣裳でいっぱいで目を奪われる。タナッセと会った。ヴァイルと一緒に城で育ったらしいので、どうヴァイルの昔話を聞き出そうか思案していると、衣裳を売り払おうとすると誤解されてしまった。そんな発想もなかったというのに随分早とちりな人だ。ヴァイルの従兄弟だから是非仲良くしてもらいたいのだけれど。
 ローニカから玉座の間にヴァイルが来るという話を聞いた。ただしリリアノに説教をされに。そんなところに出くわしてはお互い気まずいだろうから、あまり近づかないでおこう。

***

 ついに来た。もう一人の寵愛者。
 どんな奴だろうと色々想像をしていた。でもそのどれも違っていた。ぼーっとした奴だった。話しかけても生返事。ただ、突然城に放り込まれた割に、反発するような気配はなかった。
 初日は城についたばかりで伯母さんに会わされてへとへとだろうから、早めに切り上げて自分の部屋に戻った。向こうはどう思っただろうか。まあ、あんな短時間では分からないか。見た感じでは嫌がってるようには見えなかった。また声掛けてみることにする。
 次の日に会ったときもまたぼーっとしていた。遠くからレハトの侍従頭と話してるところを見ると、よくしゃべっていた。緊張されていたのか。一応次の王様だと言われているから。といっても同じ年だ。こっちから話しかけていれば、いずれ慣れるに違いない。
 これから城にレハトがいるのだと考えると、うきうきした気分をどうしても抑えられない。顔が自然とゆるんでくる。嬉しい。嬉しくてたまらない。今までずっと寵愛者は一人きりだったのにもう一人いたとは。神様の気まぐれなのだろうか。だったらその気まぐれに感謝だ。
 レハトは何が好きだろうか。甘い物が好きなら、広間でできたての焼き菓子を食べるのもいい。それとも、身体を動かすのが好きなら一緒に訓練できる。動物が好きなら、犬小屋や兎鹿小屋に連れて行こう。もし着飾るのに興味があるなら、衣裳部屋だ。あそこには大抵の服がそろっているし、気に入ったのがなければレハトの好きに作れる。衣裳部屋は用がなければ近寄らない場所だが、レハトが一緒なら二人だからその分威力はそがれるから一人で乗り込むよりはましだ。本が好きなら……そもそもレハトは字が読めるのかわからない。読めなくても教師が付くからじきに覚えるだろう。
 とにかく次に会ったら遊びに誘ってみようと思う。

***

 市の日、中庭は店を広げた商人と行き交う人々が集まっていて普段よりもずっと賑やかだった。ヴァイルに連れられてあちらこちらを見て回る。
「何か欲しいものある?」
「ううん、見てるだけでいい」
 ヴァイルが側にいるだけで十分だった。ようやく隣にいても見とれないようになった。まだ油断するとヴァイルの横顔に吸いこまれるように視線を集中していたりするのだけれど、そんなときは意識して視線を他にそらす。
 市には綺麗な陶器や、珍しい形の道具や、本、お酒や、装飾品などありとあらゆる品が並んでいる。
 懐かしい花の香りに振り返った。その一瞬で、ヴァイルの姿を見失ってしまった。背が高い大人ばかりで、私と同じくらいの身長のヴァイルの影も形も見えない。
 いきなり城にひとりぼっちになってしまったような気がした。大勢周りに人がいるというのに皆誰かと話したり商人と交渉していたり、私をちらりと目に止めて珍しいものを見るような顔をして通りすぎていくだけだ。額を覆い隠した布がめくれていないか手でなでて確認する。
 胸もとをぎゅっと握りしめ、周囲を落ち着きなく見回す。じっとりと手のひらが汗ばんでいた。心細くなり、大声を上げて彼の名を呼んだ。
「ヴァイル、ヴァイル!」
 でたらめに走って、ヴァイルを探す。ついさっきはぐれたばかりだというのに思うように見つからず、人にぶつかってはふらついて止まって、自分がどこからきたのか、今どこにいるのかも分からなくなっていた。
 急に手を掴まれた。驚いて振りほどこうとして、それが大人のものではなく自分と同じくらいの小さな手だと気づく。
「やっと見つけた!」
 よかった、ヴァイルだった。
「人が多いからあっという間にはぐれちゃうな。手、貸して」
 うなずいて、つないだ手を見る。ヴァイルの手の熱が伝わってくる。顔が茹でられたように一気に熱くなった。
 市を見るより、ヴァイルの手の感触や、横顔や、声に気を取られてしまう。会話に集中しようとしても、長く続かずに、ヴァイルの手に立ち戻るのだった。余所見をしようとしても、視線は瞬時にヴァイルのどこかに釘付けになってしまう。彼があれこれ教えてくれたり、見せてくれるのに、そんなことよりずっとヴァイルの顔を見ていたい、声を聞いていたい、手をつないでいたい、このままずっと一緒だったらいいのに、などとヴァイルのことばかり考えてしまうのだった。

***

 神殿によく、来る。もう一人の寵愛者は礼拝の日しか来ないのに。
「ティントア、こんにちは」
 最も神に近い存在。神の徴を額に戴く寵愛者。
「レハトは……何を祈りに来るの?」
「ありがとうって。神様にお礼を言いにだよ。ここに来れたからヴァイルに会えたもん」
「そう……。レハトは神様、好き?」
「大好き。本当のこというと、あんまり好きじゃないときもあったんだけど。ティントアは?」
「神は、僕らを見ている。あまねく民全てを。変わらなく。ずっと」
「ふーん。お母さんみたいだね」
「……そうなの、かな」
 首を傾げる。僕らにはいないから、わからない。
「いつも私のこと見守ってくれてたよ」
 レハトは目を閉じて手を合わせ、祈る。幸せそうに。
「また来るね。ばいばい、ティントア」

***

 ヴァイルに告白することに決めた。彼は次の王様だから、王配にしてくれと貴族たちがわんさか押しかけるらしい。この間もずるずる引きずっているのを見た。早く告白しないと、誰かに取られてしまう。そんな焦燥にかられ、呼び出しの手紙をローニカに託した。
 中庭でじっと待つ。空に帰ってくる文鳥が見えた。使用人たちがおしゃべりをしながら洗濯物を運んでいく。書類を小脇に抱えた文官がせわしなく足早に通り過ぎる。剣を鳴らして衛士の二人組が通りすがり、ちらりとこちらを見た。見なかったように何事もなく衛士たちは去っていった。
 足がくたびれて、近くのベンチに腰掛ける。最初は緊張していたけれど、それは長続きせず代わりに胸にもやもやとした不安がわいてきた。果たしてヴァイルは来てくれるだろうか。
 日が暮れるまで待ったが、彼は来なかった。そんなに告白されたくなかったのだろうか。それとも用事があったのだろうか。いや、手紙はローニカが確実に渡したのだし、ヴァイルが私との約束をすっぽかすなんてことは一度もなかった。そもそも一方的な呼び出しだったのだ。約束ではない。
 次の週も呼び出したが、ヴァイルは来なかった。
 その次の週も呼び出したけれど、待ちぼうけを食った。待ちぼうけうまい。なんて言わない。
 ヴァイルは私のことがそれほど嫌いなのだろうか。告白されても望みがないから、困惑するだけだから、来ないのだろうか。主日に顔を合わせたときは何もなかったように振舞うので、中庭への呼び出しに来ない理由を聞けないでいる。
 その次の週も手紙を出した。しつこいかと思ったのだけれど、告白すると決めたのだから、振られる覚悟で告白をしたい。

***

 奴はヴァイルを随分とお気に召したようだ。印を得た者同士、なんともお似合いなことだ。野山を駆ける小猿のごとく共に城の中をうろつきまわっている。
 城へきたばかりの頃は田舎者丸出しの風情であったが、教師や侍従頭に礼儀作法を教わっている光景を何度も広間で目にした。つたないリュートを弾く音が奴の部屋からよく聞こえてくる。図書室にも足繁く通っており、見かけるたびに読む本の難解度は確実に上がっている。勉強熱心なのは結構だが、かといって王を目指しているわけでもなし。礼法や貴族のたしなみを中心に学んでいるあたりむしろ貴人の配偶……とりわけ王配の座を狙っているふしがある。
 いや、ふしどころではない。奴がヴァイルに向ける目は決して友情などではないことは傍目にも明らかだった。
 そもそもレハトが私へ近づいてきたのは、ヴァイルの話を聞き出そうという魂胆があってのことだ。今までにも、私という人間を介してヴァイルや母上へ少しでも近づこうとする人間はいた。ここまでヴァイル目当てを隠さない馬鹿正直な顔を見ると妙に腹立ちを覚える。最初の頃は、うさんくさい二人目ということもあってそのままの感情をぶつけたこともあったが、腹でも減っているのかととぼけたことを言うのでそれも馬鹿馬鹿しくなった。
 近頃人待ち風情で中庭にいるのも、ヴァイルと関係しているのではないか。しかし親交を深めた相手を待ち伏せする意味がわからん。奴に会いたいと思えば同じ塔の中を移動するだけですむというのに。……まさか、呼び出して告白をしようなどと考えていないだろうな。いや、そんなことはどうでもいい。私には関係のない話だ。奴が城で何をしようと知ったことか。
***
 タナッセの第一印象はあまりよくなかった。嫌味な貴族らしい顔つきだったからだ。でも、ヴァイルの従兄弟ならそんなに悪い人ではないに違いない。
 実際しつこく話をしてみると結構いい人だった。ためになる本も薦めてくれた。勉強も教えてくれた。読む本のアドバイスもしてくれた。
 ただ、ケチなのか、単にヴァイルと仲が悪いのか、昔のヴァイルの話を聞いてもほとんど教えてくれない。
 城の噂話によると、うらやましいことに昔から一緒に城で生活していたらしい。ヴァイルの小さい頃の話をあれこれ聞きたくて聞きたくて仕方がないのに、タナッセはいつも大抵話をそらす。
 ヴァイルは次の王様だから昔のことは秘密にしなければいけないのだろうか。たとえばおねしょを何歳までしてたなんて、皆に知られたら恥ずかしいだろう。それにどんなに偉そうな王様でもおねしょのことまで知られてたらあんまり偉そうに見えない。でもおねしょについては別に知らなくてもいいから、小さい頃のヴァイルがどんなことを話して、どんなものが好きで、どんな遊びをして、どんなものが好きだったのか、どんな暮らしをしていたのかを知りたいだけなのだ。
 タナッセのケチ。

***

 五回目に、ヴァイルに告白しようと呼びだした後の帰り、気晴らしに屋上へ向かった。
「あ……ティントア」
 声をかけたのと同時に魔術の気配がして、結界が張られたとわかった。ルージョンはつっけんどんに言った。
「こんな時間に何か用かい」
 とくに用はなかったので首を振る。あまり機嫌がよさそうではなかったが人恋しさでルージョンのすぐそばに座り込む。足元を見るとなぜか彼女の着ている神官服の裾に土と葉っぱがくっついていた。長い髪も乱れた様子で、細い葉が絡んでいた。
「ねえ、もしさ……もしもの話なんだけど。友達がいてさ、告白しようとしたときだけいつも避けられてるのってどういうことなのかな」
「……阿呆な質問するもんじゃないよ。わかりきってるじゃないか。そりゃそいつに興味がないんだ」
「そ、そうかな? たまたまお腹がいたくなったとか、用事があったとかじゃないのかな。偶然」
「一回きりならそうかもね。でもあんたの口ぶりじゃそうじゃないんだろ」
「……五回くらい」
 ルージョンがふうと溜息をついた。
「まったくあの阿呆に寄ってくる奴らといい、お前といい……しつこくつきまとわれる身にもなってほしいもんだよ。迷惑ったらありゃしない」
「迷惑!?」
 そんなこと考えたこともなかった。
「お前もほどほどにしておかないと、そのお友達とやらの縁まで切られるかもね」
 眉を寄せたルージョンがそう言って立ち去った。
 ヴァイルとは友達にしかなれないのだろうか。そうなのだろうか。
 びゅうびゅうふきつける風がやけに肌寒かった。

***

 最近レハト様が落ち込んでる。無理もない。なんといってもヴァイル様に五度目の告白の呼び出しに来てもらえなかったのだ。私やローニカさんは、少しでも元気になってもらいたくて、レハト様の好きな花を飾ったり、美味しいお菓子を用意したりした。どん底まで気落ちしてしまっている彼を喜ばせるほどの威力はなかった。もしこれが弟たちなら、落ち込んでいても家族の誰かしらが慰めたり励ましたりして、いつの間にか元気な声を上げて外で遊びまわっていた。けれど、レハト様の家族はもうどこにもいない。何とか力になりたかった。
 広間へ行く途中、時間に余裕があったので市に寄ると面白い細工物を見つけた。レハト様へのお土産にどうだろうとお財布と相談する。少し値切れば大丈夫だろうと顔を上げたら、離れた所にレハト様が立っていた。所狭しと建てられているテントの隙間に消えて行った。気になって様子をうかがう。しばらくして顔を赤くし嬉しそうな顔をしたレハト様が出てきた。
 部屋に帰ってきたレハト様は久しぶりにご機嫌で、夕食もぺろりときれいに平らげた。
 眠る前、寝台に上がったレハト様にこっそり尋ねてみる。
「今日は何かいいことがございましたですか?」
「へへへ……うん。あのね、内緒だよ?」
 占い師に、レハト様が知っている人間の中で彼を一番愛しているのはヴァイル様だと言われたらしい。そして仲良くなれるおまじないをしてもらったという。可愛らしいお願いに頬がゆるんだ。一途にヴァイル様を慕うのがいじらしくて、その想いが届けばいいのにと祈った。
 その後、ヴァイル様に食事を誘われたといって部屋に飛びこんでくるなり、すぐまた飛び出して衣裳部屋にかけこんだレハト様の着替えに付き添ったのだった。

***

 フィアカントの館を出て登城し、幾人かの知り合いに挨拶した後、仕立てている服の調整のため衣裳部屋へと向かう。城では珍しい、張り上げた子どもの声が響いた。廊下の先でなにか揉めているようだ。声の持ち主が二人目の寵愛者であることから興味を惹かれて声の出所へと方向転換をする。
 すでに物陰に隠れて廊下の先を窺っている先客がいた。笑みを浮かべて小声で挨拶する。
「ごきげんようヴァイル様。どうかなさいまして?」
 ヴァイルがぎょっとした顔で振り返り、ごまかすように向き直った。まったく予想外だったようだ。背後に回した声の主に意識が半分以上持っていかれていたのだろう。今もまだ後ろ髪を引かれているらしく、そちらへちらちらと目をやっている。
「何でもない。訓練場に行くとこだったんだけど、前に追っかけてきたやつが向こうで騒いでてどうしようかなって考えてただけ」
 微笑んで、ヴァイルにかわって廊下の先の様子を窺う。
 そこにいたのは王配狙いに熱心なテリジェ侯爵の息子ノーティと、レハトだった。
 レハトが両手を広げて大きな円を描くようにして、大声を張り上げる。これほどヴァイルを好きなのだと言っている。続いてノーティもそれに負けじとさらに大きく手を振っている。
 レハトは顔を真っ赤にして、一歩も譲らないという姿勢だ。
 ユリリエが彼に声を掛けてもつれない返事をし、ヴァイルの話題になるとうってかわって興味を見せ、あれこれ昔の話をせがんでくる。彼の気持ちには気づいていたものの、これほど熱烈に求めているのであれば、ユリリエの出る幕は最初からなかったようだ。そして、レハトが片思いする相手もまんざらでもない様子だった。
「なんか参るよね。ああいうの……」
「ヴァイル様、お顔がちっとも困っているようには見えませんわよ」
「あ、そうだ。やっぱ遠回りだけどあっちから行くことにする」
 ヴァイルは横をすり抜けて、足早に走り去っていってしまった。
「お可愛らしいこと」
 けれども、知らぬふりをして逃げ回ってばかりいては、ヴァイルが求めるものは永遠に得られないだろう。篭りをひかえた今、彼らに残された時間はわずかだった。

***

 もう一度だけ、ヴァイルに告白してみたい。けれど、ルージョンの言っていた「迷惑」という言葉が頭の中で響いていた。
 部屋をうろうろぐるぐる回って考える。ヴァイルのことばかり考える。ヴァイルの笑顔。ヴァイルの声。ヴァイルの姿。そしてヴァイルの困った顔。胸がきゅうと締めつけられた。
 そうだ。ティントアに聞いてみよう。ティントアはいろんな人から告白されているという話だ。
 中庭で目を閉じて寝転がっているティントアを見つけて近寄った。声をかけると、ゆったりした動作でティントアは上体を起こした。
「……あのさ、もし私がティントアを好きだって言ったらどうする?」
 ティントアが首を傾げた。
「うーんと、……困る。レハトは友達だけど……一番好きな人じゃないから」
 好きな人じゃないから。
 そうか。好きじゃない人に何度も告白されても迷惑なのだ。困らせるだけ。
 中庭への呼び出しに応えてもらえないのに、何度も何度も呼んで。ヴァイルはどう思っただろう。
「ごめん。今のはちょっと言ってみただけ。私もティントアは友達だって思ってるから!」
 このときのティントアのほっとした顔が脳裏に刻まれた。
 逃げ出すように駆けだして、広間でヴァイルに呼び止められた。自分をどう思ってるか聞かれたので、大切な友達だとはっきり強調して伝えた。これで、ヴァイルも安心するだろう。
 もう告白はしない。
 
 しばらくして、ヴァイルに誘われて湖へ舟で出た。ずっと一緒にいるという約束をした。大勢に心配されたり、リリアノに叱られたりしたけれど、胸が温かくて、ふわふわした幸せな気分だった。
 そうして寝る前まで浮かれていたのだけれど、ヴァイルに好きな人ができたときも、結婚するときも、子どもが生まれたときも、笑って祝福することを考えて泣きたくなった。ヴァイルが王様になっても隣にいるのは別の人だし、ヴァイルが悲しみに暮れたとき側にいるのも別の人だし、ヴァイルが大切そうに優しく呼ぶのも別の人なのだ。
 成人した後の舞踏会で一度くらいは踊ってもらえるだろうかと考えて悲しくなった。
 でもいい。もう困らせたくない。ヴァイルの幸せを見守ることにする。
 いつか来る日のことを考えると胸が苦しくてどうしようもないけれど。

***

 レハトの元気がない。
 俺が無茶なこと頼んだからだと思う。ずっと城にいて欲しい、などと子どもでも叶わないとわかる願いを口にしてしまった。
 だからレハトを呼び出して、冗談めかして約束はなかったことにするつもりだった。それなのにレハトは城が大好きだと、なんのてらいもなく笑うから、何も言えなかった。喉まででかかった言葉が詰まってしまった。
 何故そうまで城を好きになれるのだろうか。母親を亡くしたばかりで否応なくこんなところに連れてこられて、いきなり王候補だの競争だの言われて。貴族たちからはさんざん嫌味や文句をぶつけられただろう。
 レハトは俺のことを、友達だと言った。何度も強調するように。だからこの先もずっと友達のままでいなければならない。
 一時期レハトは俺に話があると手紙をよこしてたけど、それもぱったり途絶えてしまった。俺がなかなか答えなかったから見切りをつけたに違いない。せっかくレハトから歩み寄ってきてくれたのに。レハトは城にきたばかりで俺しか見えてなかっただけなのだ。他の奴と仲良くなったり、成人後貴族から求婚者が現われて、結局同じことになっていたと思う。
 さっさと中庭に行けばよかった。一度くらい行くことは考えた。ただ、行ったら今の関係がくずれる気がした。まだ居心地のいい気楽な繋がりだけで十分だったし、俺もそこまでレハトに期待してなかった。一時城に居るだけだって。それなのに俺の中でレハトの存在が日に日に大きくなっていってしまった。向こうはとっくに気持ちを切り換えて俺のことなんて友達としか思ってないというのに。
 
 最後の日、屋上で何度もレハトが城に残ると言い張ったけれど、もうそんな約束が果たされるなどと信じられない。レハトはもうどこにでも自由に行けるのだ。城に居続ける理由はない。
 既にレハトと道は分たれたと思っていた。
 それなのに、女を選んだレハトに安堵する自分がいる。未練がましい執着を振り切るために、王配選びも考えた。ランテにとって一番いい相手。候補は幾人かあがった。それでも決められなかった。もう誰でもいいと思っていたはずなのに、決定的な行動はなにひとつとることができず、周囲から王配を決めろとせっつかれている。
 
 レハトは成人した今も城に居る。
 何しろ城へ来てから舞踏会にも御前試合にも関心を示さず、最初から王にならないと表明していた。名声は無いに等しく、城で飼い殺される身分だ。
 おかしさがこみあげてくる。なんということはない。レハトが城に残ると言い張ったのは、どこにも行き場がないからだ。おそらく誰かが保護してくれるのなら簡単に城から出て行くのだろう。多くの貴族から求婚されているようだが、まだ誰も選んではいない。もしかすると自分にとって一番いい相手がやってくるのを待っているのかもしれない。

***

 成人したヴァイルは、何度見ても素敵だ。一日中うっとり眺めていたい。ヴァイルが廊下を歩いていると聞けば一目だけでも見たいと駆けつけてしまうのだった。
 ヴァイルは伸びた髪もまた似合っていた。新しい衣裳はヴァイルの髪の毛や瞳の色の調和を考えられており、優美さだけでなく、成人したての凛々しい男性らしさも引き立て、まさしく彼のためだけに誂えられたものだ。
 手足も背丈も伸び、すらりとした彼の立ち姿は絵になる。絵にしたい。そうだ。画家になろう。この瞬間この瞬間のヴァイルを永遠に地上にとどめるために。
 広間で知り合ったギッセニ男爵に弟子入りした。彼は変なところがあるが、絵に関しては疑いようもなく才能を持つ人だ。
 私が描くのは全てヴァイルだ。愛らしさとやんちゃさが同居していた未分化のヴァイルから、今の凛々しいヴァイルまで描く。全てはこの眼に焼き付いている。
 描き始めた頃は周囲から猿だの土豚だのとひどく言われたものだが、ヴァイルの絵にそんな評を受けてたまるものかと奮起し熱心に修行した。
 やがてまるで生きているようだ、息吹を感じると言われる腕前になり、ついにはヴァイルの肖像画を依頼される立場に至った。
 私は天にも昇る心地だった。短い時間とはいえ、公然とヴァイルの間近でいくらでも眺められるのだ。彼と繋がるために、絵という手段を選んだことに間違いはなかった。
 部屋には衛士たちを意識の外に置けば二人きり。ヴァイルは気楽な風情で、以前と同じようにくだけた口調になった。とはいえ最後の日に私が不用意な発言をしてしまったのか、何かが変わってしまっていた。
「たまには風景画とか描かないの?」
 首を振る。
 変わったのはヴァイルだけではない。私は無口になった。あまり口を開くとヴァイルに好きだと連呼してしまいそうで怖い。未練たらしい女だと思われたくない自尊心と、ヴァイルの心を煩わせたくない思いで口数は自然と少なくなっていた。
 ヴァイルの絵しか描かないことが知れ渡っているが、あくまで私は王に心酔している一画家なのだ。わきまえなければならない。
「どっか出かけないの? 届けさえ出せばさ、故郷の村にだって行けるのに」
「ずっと城にいるって約束したもの」
 笑顔で気持ちを覆い隠し、約束という大義名分をかざして城に居座る。側にいられるだけでいい。ヴァイルにどう思われても。

***

 レハトは俺の絵しか描かない。王城付きの肖像画家でも狙っているのか。それにしては淡泊な応対だ。取り入ってやろうという気配がない。こうして二人でいてもひたすら絵に向かうばかり。話しかければ言葉少なだが返事はするし、愛想もときにはふりまきはするものの、大人しくしている。
 けれどどこか昔のようにかみ合わない違和感。いつまでも子どもではいられるわけがない。子ども時代と変わららない関係を求めるなど、過ぎた時間を取り戻そうとするようなものだ。
 はたして昔と同じ繋がりを俺はレハトに求めているのだろうか。レハトが女を選んだときどこかで喜びはしなかったか。未だ彼女が婚約者さえ定めていないことに、ずっとそのままでいればいいと願わなかったか。
 
 退位直前のある日、レハトを私室に呼び出した。俺が城を出た後の、身の振り方は考えているのか訊ねた。
「できれば、ランテへ」
 半ば予想していた答えだった。彼女は最終的に庇護する者として俺を選んだ。数多居た求婚者は数年ほどで皆それぞれの家柄に相応しい相手を見つけて消えていった。絵の道に邁進していたレハトは見向きもしなかったからだ。
 
 数日後、城から出立する一行にレハトが加わった。
 彼女はランテの屋敷でもこれまでと同様に静かに絵を描く生活を送っている。
 時折食事を共にとるようになった。たまに旅行に出るとなれば同行した。
 いつの間にか側にいる時間が長くなっていた。
 レハトに肖像画を描かれることにすっかり慣れ、側にいることも、長く見つめられることも、当然のような心持ちで受け止めていた。

***

 夢見ていた時間が訪れる。なんとヴァイルが私の前でうたた寝をしたのだ。部屋の中で二人きりということで油断したのだろうか。
 長年ヴァイルの肖像画家をしていてよかった。アネキウスに深く感謝し心の中で短い祈りを捧げた。
 眺めると同時にその珍しい寝姿を紙にとどめるために手を動かしてしまう。昔のようにただ何をすることもなく全身全霊でありのままのヴァイルを見つめることはない。
 突然背筋を悪寒が走った。部屋にヴァイル以外の気配が一つ現われた。あまりにも異質だった。特別な訓練などせず、御前試合にすら顔も出したことはなかったがこの夢のような空間に落とされた一点のしみに、私の感覚はこれまでになく鋭敏になった。そもそも衛士は許可があるか緊急のときでないと入室は許されていないはずだ。
 立ち上がって振り返る。夕刻、カーテンから落ちる濃い影の中、相手が動いた。反射して何かが光った。金属を持っている。暗殺者だ。ヴァイルが殺される。
 何かしなくては。このままでは目の前で彼の命が失われてしまう。声が、出ない。指先が震える。助けなければ。衛士が来る前に少しでも長くもたせなければ。
 踏み出した足が裾をふみつける。倒れそうになって振り上げた手から筆がすっぽ抜けた。伸ばした手がヴァイルの上着を掴み、彼が座っていた椅子もろとも転倒に巻き込む。
 ヴァイルを守らなくては。この身を盾にしても。
 椅子のどこかに頭を強打した。遠ざかる意識の中、ヴァイルの名前を何度も呼んだ。

***

 他者の気配に目を覚ますとレハトが緊張を身体中にみなぎらせ何かに立ち向かうようにしていた。
 次の瞬間、椅子ごと引き倒され放り出される。横で倒れている椅子の上に気を失ったレハトが妙な格好でぐったり横たわっていた。
 侍女が盆に銀器を乗せたまま硬直している。
 レハトはぶつぶつ呟いて苦悶の表情を浮かべている。
「ヴァイ……まも……なきゃ…………ヴァイル……死なないで」
 駆け込んできた衛士によって用意された別の椅子に座り直した。
 うなり声を上げるだけになった彼女を長椅子へ運ばせ、侍女に医士を連れてくるよう命じた。
 医士の見立てでは、頭を打っただけで他に異常はないということだ。事態を目撃した侍女は、なぜいきなりレハトが妙な行動をしたのか全くわからないと証言している。衛士らはレハトが俺を害する企みをしていたのではないかと疑いの目で見ている。
 起きたレハトは赤くなったり青くなったりして何度も謝り、自室へ戻っていった。

***

 勘違いだった。恥ずかしい。侍女を暗殺者と間違えたなどとは口が裂けても言えない。
 穴を掘って身を隠したい。土豚の蹄に踏まれたい。兎鹿の毛に顔を埋めたい。狭い小屋にぎゅう詰めにされた兎鹿の獣臭いふかふかの毛の間近で深呼吸して気を失いたい。
 思い返すとヴァイルは私が部屋に入った時、侍女に何かを言っていた。後でお茶かなにかを持ってくるよう頼んだのだろう。そんなことはヴァイルの寝顔ですっかり頭の中から抜けてしまっていた。
 ヴァイルが無事だったことは何よりだが、私は侍女や衛士から若干妙な目で見られるようになったのだった。
 ただ一つだけいいことがあった。ヴァイルが子ども時代のように友人らしい親しみを見せてくれるようになった。あまりにも間抜けな私に警戒心など無用のものでしかないと思ったのか。
 
 ランテの地に落ち着いてしばらく経った。覚悟していた結婚をヴァイルがする気配もなく、平穏で変わらない毎日が続く。
 私は今日も明日もこれからも、ずっとヴァイルを描くのだ。
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